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王昀 Wang Yun/建築家

黒竜江省ハルピン市生まれ
中学生の時、北京に移り住む
1985年北京建築工程学院建築科卒業
1991年東京に渡る
1993年雑誌『新建築』主催、第20回日新工業建築設計コンペティションにて二等賞受賞
1994年日本新建築主催、第4回SXL住宅設計競技にて大賞受賞
1995年東京大学修士課程修了
1998年東京大学博士課程修了
2001年北京に戻る。北京大学建築学研究センター准教授に就任
2002年方体空間工作室設立
同年、60平米級小城市、善美オフィスビルエントランス
2003年盧師山庄別荘A+B、石景山財政局オフィスビル、百子湾幼稚園、百子湾中学校など
2005年国軒マーケットなど
2006年常営様板間室内デザインなど
2007年太陽村、内モンゴルフフホト市小厰庫倫居住区中学校
現在、杭州、内モンゴルでのプロジェクト、北京のショッピングモールなどを進行中。北京大学建築、ランドスケープデザイン学院副院長

http://www.fronti.cn/

「建築もアートも「心」が必要」

R:まずはじめに伺いたいのは、依頼が来た時、建てる前にまず一番初めに考慮することは何ですか?

W:まず、その建物の周辺の環境を考えるでしょうね。それから、施主、依頼者が今後、その建物をどのように使用していきたいのかなど、具体的な情報をもらい、意見交換をしていきながらデザインのイメージを膨らませていきます。

R:例えば、百子湾中学校をデザインされた時、具体的にどの点を重視されたのでしょうか?

W:まず、全部で24クラス入るというのは、すでに決定していました。また、中国では、体育館や図書館などの面積が法律で定められていたり、実験室に自然光が入らないようにするなどの決まりもあります。それらの法律や規定に従いつつ、予算も考慮しなければなりません。すべての条件をクリアさせ、なおかつ学生の立場にたって考えました。私が中学生だったら、どんな学校がいいだろう、改善すべき点はどこだろうなど。そして、私の中学時代を考えたんです。授業と授業の間に10分ほどの休憩がありますよね。その10分間というのは、トイレに行ったり、友達とおしゃべりをしたり、あっという間に終わってしまいます。ですから、その10分を有効に使ってもらいたいと、教室を二階と三階に設置し、二階と三階をつなぐ階段を広くとり、学生が行き来しやすいようにデザインしました。学生は、その階段を行き来するだけで交流がもてるわけです。素材や見た目を重視するのではなく、人間の行動、学生がどのような動きをするか考慮する必要がありました。

R: 王昀さんのアトリエ「方体空間工作室」という名前の由来は何ですか?

W:私が日本から北京に戻った時、ヨーロッパスタイルの建築が多く建設されていました。私からみたら、非常にごちゃごちゃしているなと感じたんです。中国人の中には、「シンプル」な建築に対して「安っぽい」「マッチ箱のようだ」というイメージを持っている人が多いんです。でも、私は逆に、これまでにマッチ箱のようなすばらしい建築をデザインできる建築家がいなかったからなんじゃないかと思ったんですよね。それなら、私が素敵なマッチ箱、立方体の建築物をつくればいいと思ったんです。立方体から新しい建築の道を開いて行く、開拓の原点。また、英語のfrontierは開拓者という意味ですよね。中国語、方体のピン音fangtiと英語frontierは似ている。そこから「方体」という名前をつけたんです。

R:王昀さんが北京に戻られてからすでに7年が経ったわけですが、この7年間で、中国の国民の建築に対する見方、意識に変化を感じますか?

W:以前は、建築家と職人を混合していた人が多かったように思います。また、建築家の名前が公にならない場合が多かったので、人々は建築家という存在すら知らなかったんです。ただ、ここ数年、海外の建築家が中国で活動したり、マスコミで取り上げられる機会も増えましたので、皆、建築家の存在を認知するようになったと思いますね。

R:それでは、以前と比べて、施主、依頼者とはスムーズにやり取りができるようになったとも言えますか?

W:中国では、建築家と製図屋を同業者と捉えている人も少なくありません。ですから、依頼者の中には、建築家に「ここにはこのサイズの窓を」など多くの要求を求めてくる人もいます。それはまるで、画家に「ここにはピンクを入れて下さい。ここには白色を足して下さい」と要求をするのと同じです。一方的に自分の要求だけを建築家に求め、建築家の意見や経験を受け入れようとしない。そのような依頼者がいることは、大きな問題といえるかもしれませんね。依頼者の要求に答えながらも、こちら側の考えを理解してもらうことは、なかなか簡単なことではないんです。私たち建築家に直面する壁と言えるかもしれません。

R:中国では、依頼者に建築家の役割を理解してもらうにはまだ時間がかかるでしょうか?

W:そうですね。まだまだ、時間がかかると思いますね。20年、30年かかるかもしれません。ただ、中国はハイスピードで発展をとげていますし、人々の意識の変化も早いですからね。

R:その他にも、日本と中国それぞれにおける建築に対するとらえ方や建築家のスタンスには、やはり相違はあるのでしょうね。

W:例えば、日本では、一級建築士の資格を得れば自分の建築事務所をもつことが可能ですが、中国では、一級建築士の資格があっても、そう簡単には事務所を設立することはできないんです。といいますのも、国の関係機関からの承認が得られて初めて施工ができるからです。もし、承認が得られないと我々のデザインは全く意味がないものになってしまうんですね。また、中国では一級建築士の資格がない人間でも簡単に建築デザインはできてしまう。ある意味、自由なんですね。ただ、プロフェッショナルな立場を重視する必要はありますよね。

R:日本で建築を経験されると、中国で施工主や建築関係者と仕事をする際、やりずらいと感じることがあるのではないですか?理解してくれないなど。

W:確かにありますね。日本は、職人システムがしっかり根付いていますよね。中国にはありません。日本人はディテールに至るまで目をくばりますし、物事に対して非常に執念をもって取り組みますよね。よりいいものを作りたいと。中国には、その意識がまだ欠けていると思いますね。

R: 王昀さんはアートと建築を全く別に考えていますか?

W:まず、「アート」と「美術」を全く別に考えています。「アート」には人間の心が反映されなければならない。ただ形を作るだけだと、それは「美術」なんです。「美術」を「アート」にするには「人間の心」を取り入れなければいけません。よって、私は、建築と美術は別だけれど、建築とアートは似ているのではないかと思っています。建築も、人間の心から生まれます。表現方法は違うけれど、建築にもアートにも「心」が含まれるnのです。我々建築家は、空間を通して人に感動を与えるんです。

R:王昀さんが生まれて初めて建築と関わったのはいつですか?やはり、大学に入ってからですか?

W:ハルピンでは、毎年春になると自宅の内装をする習慣があったんです。壁の塗装を家族みんなで行いました。建築デザインではないですが、これも建築と関係があると言えますよね。カラフルな色で壁を塗ったり、模様を入れたり。この作業は非常に楽しかったですね。他の都市では、このような習慣はないのではないでしょうか。また、小学一年生の時、当時、国政が乱れていた時代で、校内に防空壕を作ったんです。その際に必要なレンガは、私たち学生が作りましたね。

「中国の建築教育は不幸」

R:そもそも、建築家になろうと思われたのはどうしてですか?今お話にあった幼少期の思い出が関係しているのでしょうか?

W:小学四年生から中学まで、建築家に絵を習っていました。北京に移り住む前ですね。絵は好きだったんですよね。そして、高校生の時、たまたま書店で『建築家』という雑誌を手に取りました。絵もあるし、詩のような文章も書かれているし、建築ってなんだか面白そうだなと思ったのを覚えています。それまでは、今の中国の市民同様、建築家を職人として理解していました。

R:アートや建築に関わる人が身近にいたわけではなかったんですね?

W:いなかったですね。ただ、ハルピンという都市は、当時のソビエトの影響を受けていたので、街中の建築物はカラフルで、柱の上には装飾物があったり派手でした。

R:王昀さんはこれまでに国内だけでなく日本、ヨーロッパなど各国の建築を見てこられましたね。中国の近代建築と海外の近代建築の大きな違いは何でしょうか?

W:ハルピンには、当時のソビエトからの影響で、1920年、1930年代、すでに近代建築はありました。ただ、中国の教育システムの中には、近代建築という概念はなかったんです。そもそも「建築」という言葉は日本から入ってきたものなのです。日本に留学した中国人が中国にもたらした言葉。また、1920年代にアメリカに国費留学した中国人がアメリカで学んだ建築というのは、フランスのエコール・デ・ボザールの教育、いわゆる古典教育だったのです。当時の中国人留学生は、それを直接中国にもたらし、学校での教育システムに取り入れた。しかし、当時、ヨーロッパでは現代アート、近代建築がスタートしていたのですが、アメリカで学んだ国費留学生は「ボザール」しか知らなかった。1949年、中国とソビエトに友好関係が生まれました。その後、中国からソビエトに留学生が派遣されましたが、その時のソビエトでの教育もやはり「ボザール」だったんです。ですから、1980年代まで、中国ではずっと「ボザール」だけの教育でした。ですから、中国の建築教育は非常に不幸といえます。中国において、近代建築に対する理解が欠けている人間が多いことは、決しておかしなことではないのです。四角い空間を理解できる人間が少ないのは、仕方がないことなんです。ですから、私は、中国でも抽象的な建築を建設しなければいけないと思っています。立方体、シンプルな空間を出発点にして建築すべきではないかと提示したいのです。

R:百子湾中学校、百子湾幼稚園、廬師山庄ヴィラをはじめ、王昀さんが手がけた建物はどれも白色でデザインがシンプルという共通点が見られます。

W:白色はピュアですよね。また、私の幼少期の思い出と関係があるかもしれません。ハルピンの冬は、雪の真っ白な白銀の世界なんです。夜、寝る前の外はリアルな世界が広がっているのですが、朝、窓を開けると、前日のリアルな世界ではなく、真っ白に覆われた夢のような世界が広がっている。その思い出から、建築に白を使っているのかもしれないです。また、北京にはごちゃごちゃした建物が多いんですよね。その中でも、北海公園内に建つ真っ白な白塔は、空の青とマッチしていていいですね。北京のリアル世界に白い建物を建設することで、その先の何かの切り口になればとも思っています。

R:中国のデザインには何か欠けているものはありますか?

W:手法に関しては、特に不足しているとは感じていないのですが、中国のデザインは「やりすぎ」な感があるかな。手を動かし過ぎで、頭で考えることがまだ足りないのかもしれません。私が考えるデザインというのは、最後はやはり「心」が大切だと思うのです。創作されたデザインにどれだけ「心」が入っていて、いかに人を感動させられるかが重要なんです。激しい感動でなくてもいいんです。小さな感動でいい。例えば、内装デザインでみますと、ごちゃごちゃしていて、人間がその空間に入ると邪魔になるデザインが多い。「やりすぎ」なんですよね。やはり、シンプルがいいんです。



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