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喬小刀 Qiao Xiaodao/その時々で肩書きは変わる。平面デザイナー 、クリエイターのマネジャー、ミュージシャン、キュレーター、アーティスト……など(本人談)

本名、 喬西
喬小刀という名前は、たまたま縁があってつけた。名前は、ある時期がきたら変える。変えることで、自分自身を更新させる
1976年黒竜江省生まれ
中学卒業後、左官、大工、アーク溶接工など仕事を転々とする
1998年黒竜江省から北京に移り住む。その後も仕事を転々と
2002年小さなデザイン会社を設立
2005年古筝ユニット「反調劇」結成
2006 年姪、喬木楠とのユニット「大喬小喬」で国内巡演
2007年「大喬小喬」のファーストアルバム『消失的光年』リリース
2008年アトリエ「微薄之鹽」(「微量の塩」という意味)を正式に設立
2011年書籍『好的生活没那麼貴』出版
2012年「大喬小喬」再結成。アルバム『漁樵問答』リリース

http://blog.sina.com.cn/qiaoxiaodao

「時間の断片を留める」 R:喬さんは日頃、どのような音楽を聞くんですか?

Q:正直言いますと、音楽ってよく分からないんですよね。(笑)しかも、歌詞のない音楽はより分からない。ただ、最近は、私自身音楽活動をする人間として、若手ミュージシャンをバックアップする人間として、流行りの音楽を聞くことが多いかな。なぜ、この音楽が今、そんなにも人気があるのか探る意味でもね。

R:7月19日に北京のショッピングモール内で開幕した『複製我』(私を複製)は喬小刀さんがキュレーションされた展覧会ですね。具体的にどのような展覧会なのでしょうか?

Q:クリエーティブな活動をしている若者に発表する場を提供したかったんです。彼らは、普段別の仕事をしながら、クリエーティブな活動をしているんです。でも、発表する場がない。それなら、私が場を確保し、キュレーションしようと思ったわけです。

R:『複製我』というタイトルにしたのは何故ですか?

Q:参加した若者は皆、個性が強いので、いかなる規則にしばることなく、彼らの表現が十分に発揮できる場にしたいと思ったんです。自分の涙、髪の毛、自分の顔をコピー機でコピーしたモノでもなんでもいい。とにかく、自分自身から複製されたモノを発表してくれればいいと。そういう思いから名付けました。また、今年5月には、この私のアトリエの横にある1,200平米の空間でも展覧会を開催したんですよ。空間が1,200平米あることから『1200』というタイトルをつけました。展覧会開催にいたるまでの過程を、このように写真と文字にして記録しました。私は毎回、展覧会やイベントを開催する際、過程を必ず写真と文字で記録していくんです。

R:何故、記録して残すのでしょうか?

Q:時間の断片を留めておきたいからですね。それは、私の音楽活動の目的でもあるのですが、私と姪が発表した音楽は、私たち二人の時間を永久不変に残しておきたいと思ったからなんです。また、自分自身の体験を記録したものが『月経』です。このように記録した後で自身の欠点を見直し、他人から優れている点を学ぶんです。ですから、自分の生活を記録することを、非常に重要視しています。

R:いつ頃から記録を始めたんですか?

Q:2002年、ウェブサイトデザインの仕事を辞め、クリエイティブな活動を続けていこうと決めたあの年は非常に孤独でしたね。何事も自分で決定し、進めていかなければいけない。他人は助けてくれませんからね。その頃から、デジカメで撮影した写真と文章で、日々記録することを始めました。2005年には、3年間の記録をシルクスクリーンで印刷し、分厚い書籍にしたんです。月日が経っても、当時の思いでは残せますよね。最近は、印刷という手段だけでなく、ビデオや録音など様々な方法で記録しています。 「現実生活は非常に残酷」 R:北京にはいつ移り住んだんですか?何故、北京だったのでしょうか?別の都市は考えませんでしたか?

Q:1998年に北京に来ました。何故北京だったのかと言いますと、小学生時代の同級生が北京で美容師をしていたんです。その友人を頼って移り住んだわけです。別の都市には知り合いがいなかったんですよね。もし、別の都市に知り合いがいたら、北京じゃなかったかもしれません。これも、縁なんでしょうね。当初は、北京には長くても1年くらいの滞在としか考えていなかったんですけどね、本当は。地元では学べない、見られない、触れられない事を取得して、地元に戻ろうと思っていたんです。北京で私ができる事はないと思っていましたから。また、当時、地方出身者にとって、北京は非常に怖い都市でもあったんです。ですから、常に恐怖心がありましたね。

R:そのような恐怖心は今でもあるんですか?

Q:正直いいますと、恐怖心はごく最近まであったと言えます。警官と知り合いになり、友人が増え、自分の家、自分の車、自分の落ち着ける場を手に入れてやっと、そのような恐怖心がなくなったといえるでしょうか。完全に恐怖心がなくなったのは、ここ数年ですね。

R:当時について、何か印象に残っていることはありますか?

Q:1998年、北京に移り住んでから接したロックにははまりましたね。当時、毎晩のように自転車でライブハウスに通ってました。チケットを買うお金がなかったので、会場の外で漏れてくる音を聞いていたんですよ。(笑)

R:北京に移り住んで、今年で10年になるわけですね。北京は好きですか?特に好きな場所はありますか?

Q:好きですね。もう、北京を離れられないでしょうね。両親も北京にいますし。特に好きな場所は、芍葯居という地域です。2005年に生活していた地域で、今でも生活したいなと思う場所です。非常に愛着があります。

R:喬さんはこれまで何故、あきらめないで自分の夢や欲望を形にしてきたのでしょうか?

Q:ひとつは、虚栄心が強いんでしょうね。もうひとつは、私自身、自分の目的が何なのかはっきりと分かっているからです。利益重視ではなく、自分が作り上げてきたものを皆に伝えたいという思い。私があきらめずに活動してきたから、今の成果があるわけです。ですから、若手クリエイターにも「あきらめるな」と言い続けています。

R:ご自身の収入はどこから得ているのでしょうか?アトリエは非営利なんですよね。

Q:まず、約10年実績のあるシルクスクリーンで得た利益ですね。すでに顧客もついています。また、企業から依頼されるグラフィックデザインです。そして、今年に入ってオリンピックの閉幕式での映像総括の話など、予期せぬ仕事が入ってきます。また、私たちの曲の使用権をイギリスやスペインに売りました。

R:喬さんご自身もクリエイターですが、喬さんが思うクリエイター像を教えて下さい。

Q:独特の思考を持ち、その思考を表現する能力があり、それを現実のものにすることができる人のことだと思います。

R:北京オリンピックが閉幕しましたが、北京オリンピックをどのようにご覧になっていましたか?

Q:中国人として、非常に熱くなりましたし、自尊心が生まれました。ただ、オリンピックがもたらしたハイスピードの発展が今後、どのように平衡していくのか注目したいと思っています。

R:喬さんは、10年後の中国はどのような姿になっていると思いますか?

Q:中国人は基本的に強靭です。優秀な人間も多いですし、上を目指そうという精神の人が多いです。ですから、10年後は世界でも1、2を争う強大な国になっていると思います。今、中国の労働費用は安いので他国のために働いていますが、労働費用が他国と同じくらいになった時、立場が逆転するかもしれませんね。

R:2008年後半の予定を教えて下さい。

Q:9月に映画撮影を予定しています。また、年内に「反調劇」のCDリリース、『微薄之鹽』一年の総括本を制作する予定です。そして、冬が来る前にスポンサーを探して、アトリエに暖房設備を取り付けようと思っています。(笑)といいますのも、今の暖房設備だけではこの大きいアトリエは暖かくならないんですよ。

*大声展: 美術館やビエンナーレなどの一般的な展示スタイルではなく、鑑賞とショッピングを一体化させた新たな試み。2005年にスタート。「若手クリエイターに発表の場を」というコンセプトのもと、中国国内を巡回した展示。2007年には、約150名の国内外のクリエイターが参加 。

*古筝:こそう。中国の伝統的な撥弦楽器。

(インタビュー:2008年8月17日)

喬小刀に影響を与えた5人
[1]郭站林??人生の指導者(18歳?21歳の時)
[2]張金苓??初めての恋人 バックアップしてもらった(21歳?25歳の時)
[3]許巍(ミュージシャン)??精神面の栄養剤(20歳?25歳の時)
[4]梁龍(中国のバンド「二手?瑰」のボーカル)??友人の幅を広げてくれた導火線のような存在(23歳?27歳の時)
[5]胡小路(妻)??終生の伴侶(31歳?未来)



『消失的光年』大喬小喬
「星座」
喬小刀本人の許可を得て、音源を提供しています。




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